ガーナと宗教のこと
まいど
鶏肉の脚をまるごと購入して捌くことに日曜の午後を費やしたゆっこです🐓
さて日曜ともなると周囲の店はほぼ休業。
なぜかというと、多くの人が朝から教会に出掛けていくから⛪
ガーナでは大多数の人がキリスト教信者です。
日曜だけではないけど各宗派の教会で曜日毎に集会が開かれるので
多くの人が熱心に参加してます。
わたしのガーナ生活が始まってまず最初に驚いたのはこれ
宗教です。
宗教に費やす情熱と時間がハンパない。
日曜午前中なんてわたしだったらゆっくり寝て
ベッドでゴロゴロしながらサンデーモーニングとサンデージャポン見てのんびりしたい。
ガーナの人たちは日曜朝から身支度を整えて
(ちゃんとアイロンかけたきれいな服装。宗派のシンボルマークがプリントされた生地で服を作ってる人も多い。)
昼食前の時間までガッチリ教会ですごします。
もちろんそれは全員ではないんだけど
宗教観念が乏しい日本代表のわたしから見ると、ちょっと異様なくらい熱心。
わたしなんて昼が近づいたらお腹空いて、
これいつ終わるのかなぁーなんて時間が気になっちゃう不届きな奴です。
宗派によって集会の過ごし方は様々で、
わたしのホームステイ先の家族が所属してる教会ではライブバンドで演奏して、
更に大きなスピーカーをたくさん並べて爆音の中で踊って歌って祈るスタイル。
集会終わる頃には耳がキーンてなります👂
それとは対照的に静かに祈るスタイルの宗派もあります。
日常生活の各所に宗教が絡んでいるのも驚き。
例えば、わたしの配属先では毎週月曜の午前中にミーティングがあるんだけど
開始・終了のときは必ず全員でお祈りする。
配属先の上司と初めて面談したときも
『あなたの信仰は何❓』
と聞かれる。
『日本では仏教と神道がポピュラーだけど宗教を熱心に学ぶ人はあまり多くないんですよ』っていうと不思議そうな顔をして
『じゃあ何を信じてるの❓』
と疑問を持たれる。
日本でも会社単位で神社のお祓いを受けたりする場合あるけど
個人個人の熱心さが日本と大きく異なる部分かなって感じてます。
わたし個人は日本の生活で仏教と神道を混在させてて、
初詣には神社とお寺いくし、
厄年には神宮でお祓いするし、
お札やお守り買ったりして家に供えるし、
お彼岸やお盆はなんとなく祖父母先祖を思い返す。
けど全く一生懸命ではないな。
ホームステイ中のある夜、
夜中になっても遠くから音楽やざわめきが聞こえてくるので全然寝れないことがありました。
翌朝、ホストファミリーにそのことを聞いてみたら
なんとお葬式だそうで。
ここではお葬式に三日三晩費やして賑やかに故人を偲ぶんだそうです。
(ちなみにガーナの喪服は黒&赤の配色でなんだかみんなオシャレです)
日本でも人が死んだらお通夜、お葬式、法事といろいろな儀式を執り行うけども、
やっぱり熱心さに大きな違いを感じます。
でも寝れないのは困るので翌日は耳栓して寝ました。
そんなガーナにも他の宗教はあって共存してます。
首都アクラにはイスラム教のモスクがある。
先日8月21日はイスラム教の年間行事『Eid-ul-Adah 犠牲祭』で祝日に。
当日はうちの近所で牛を解体する風景が。
家族親戚だけでなく貧しい人たちにも肉を分けて命を戴くことを学んでいるそうです。
わたしの配属先も休業。
『キリスト教信者が多いのにイスラム教の行事で休日になったりするんだね』
と配属先で聞いたら
『うん、ここではキリスト教信者もイスラム教の行事を楽しんでるよ』
とのこと。
なんか全国的にクリスマスを楽しむ日本を思い出した。
うーん、ちょっと違うか。
あ、もちろんガーナではクリスマス休暇があるそうです🎄🎅🎁✨
ガーナに来てから人々が宗教に注ぐ情熱に驚いたと話したら、
『ここは日本と違って娯楽が無いし、
教会の集会って情熱を傾けることができる数少ない機会とも言えるんです。
教会は社交場の役割も果たしてて男女の出会いも生まれたりするんですよ。』
という意見も聞こえてきた。
そうかー。
日本だとアクティビティには日々事欠かないし
各自が違う趣味をもって楽しんでるのが一般的だからなー。
うーん。
所変わればいろんなことが違うんだなぁとまだまだ驚くことばかりです。
空母瑞鶴慰霊式典
今日はわたしが2008年に書いた日記を掘り起こしてアップします✏️
今となっては懐かしいmixiを使ってました。
当時まだ存命だった祖父母と一緒に参加した慰霊祭の模様や
それに際して思ったことなど書きました。
ガーナ滞在中は何かと日本の行事に疎くなってしまいそうだけど、
8月15日終戦記念日を迎え祖父母のことを思いだし、
この日記を引っ張り出してきました。
戦争を知らない私が
今後に戦争を伝えていくのは
とても困難だけど
日本が戦争を繰り返さない
平和な国であり続けますように
という願いを込めて
また自分もそれを忘れないために
しつこくアップすることにしました。
ちょっと長めですがよかったら時間あるときに読んでください🙏
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うちのじいさんは食事中、
いつも急いでごはんをかきこむので
よくむせます。
そのたびにばーさんに
『もっとゆっくり食べんと、そのうち喉につまらせて死んでまうわ!!』
と怒られてる。
そのたびにじーさんは
『わしは海軍におったで、そのときの癖が直らんのだわ。
食事は急いですませんといかんかったで。』
と言い訳して笑います。
うちのじーさん御年86歳は戦争中は海軍にいました。
徴兵を受けて戦艦に乗り込み
攻撃を受けて戦艦は沈没。
じーさんはフィリピン沖で海に浮いていたところを助けられたそうです。
乗っていた船は航空母艦 瑞鶴(ずいかく)という名前です。
太平洋戦争の当時、真珠湾攻撃にも出撃した戦艦だそうです。
1944年10月25日に沈没したそうです。
その当時を偲んで、
奈良県の橿原神宮で毎年10月25日に慰霊式典が開かれています。
数年前に親戚がその式典の存在をTVで知って、
うちのじーさんに教えてくれました。
以来、毎年じーさんとばーさんは出席してます。
が、体力の低下や体調が心配になり、
自分が出席できるのは今年が最後だろうと
じーさんが言っていたのを母から聞きました。
で、今年は10月25日が週末だったので、
家族で一緒に出席することにしました。
名古屋駅から近鉄特急&ローカル線で約2時間で橿原神宮駅に到着🚋
ばーさん『戦争のときにお参りに来たときは何も無かったのに、賑やかになったねぇ』
大きな駅ではないけど、
いろんなお店が入ってたり学生さんが沢山歩いてたり、けっこう賑やか。
近くのホテルでランチして
駐車場を抜けて、慰霊碑のある会場まで歩きます。
会場では大正琴の演奏。
美しいけど物悲しい音色が響いていました。
慰霊碑の前には祭壇が設けられ
慰霊碑の後ろには戦艦のマストのレプリカ。
艦旗が飾られています。
式典開始まで辺りを見学すると、当時の記録が展示されてました。
『人間爆弾』
『人間魚雷』
私のこれまでの生活の中で登場したことの無い言葉です。
戦没者名簿には小さい字で無数の人間の名前が刻印されてます。
13:40 式典開始
橿原神宮の祭祀によるお祈り、
生存者による挨拶、遺族の献花など
滞りなく順番に執り行われます。
とりわけ印象的だった式次第の中のひとつ
『当時を偲んで』
既にお亡くなりになった、瑞鶴の生存者の一人により
当時の状況が語られたものを録音した音源が流されました。
『…死に場所を求めて艦を進め…』という言葉に、
現代では考えられない、 『お国のため』の
必死の犠牲的精神を感じた気がします。
語り手の口調はいわゆる『軍人』調で、
難しい言葉使いがわかりにくい部分もありましたが、
そこで何が起こったのか初めて知りました。
1944年10月25日、マリアナ沖で
瑞鶴が7本の魚雷と10数発の命中弾を受け
航行不可能となったとき、
艦長は総員退去の命令を出したあと、
自室に戻って瑞鶴と運命をともにしたのだそうです。
海に投げ出された乗組員達は、攻撃がおさまったあとで
瑞鶴と一緒に編隊を組んでいた他の巡洋艦などに救出されたそうです。
うちのじーさんはその一人。
また、救出した戦艦が攻撃を受け、沈没したものもあったそうです。
そんな中、うちのじーさんは幸運にも生き延びて日本に戻ってきてくれました。
そこで語られた話は、
戦争を全く知らない私にとっては
まるで映画の中の出来事のようでした。
国のために若くして勉学をあきらめて命を捧げるということが
当たり前だった日本が本当にあったんです。
でも、ただ国のために死ぬことを望んでいたばかりではないこともわかりました。
瑞鶴艦長の最期の言葉の中に
『…。死んではならぬ、生きてくれ。』
とあったのです。
本当に、それはまるで違う世界の話のようでした。
14:14 瑞鶴が沈没した時間に合わせて黙祷
最期に生存者の代表者の方からの挨拶があって式典は終了。
終わった後、芝生でお弁当を広げて会食が始まります。
そこにじーさんの知り合いは一人もいないけど、
じーさんたちは輪になって当時の話をしたりしていました。
『日本の戦争映画で船が攻撃を受けるシーンがよくあるけど、
実際はあんなもんじゃないんだ。』
『日本は本当に平和な世の中になった。』
そんな会話が聞こえてきた。
私と母は橿原神宮に初めて行ったので、
ばーさんに促されて本宮のほうまで散歩に行きました。
けっこう広い。
この日はどこかの会社が社員総出でお払いを受けていた。
ひとまわりして戻ってくるとじーさんたちはまだおしゃべり中。
みんなうちのじーさんと同年代のはずだけど
背中が曲がってる人なんて一人もいない。
なんかうちのじーさんが一番年寄りに見えるかも。
お酒飲んでる人もいる🍶元気だな~。
でもばーさんは一人で輪の外にいた。
ばーさんは昔から戦争の話をしようとしない。
私が小さかった頃、私が戦争について質問しても何も話さない。
家の中でじーさんが海軍の話をしだすと、
ばーさんが嫌がっていたのを今も覚えています。
わたしは小さい頃、じーさんがごく稀に戦争や海軍の話をするのを
なんかちょっとこわいな、って思ってた。
でも、今回のこの式典に参加してみて、
じーさんたちは私たちの想像を絶する時代を
一生懸命生き残ってきたから
いまこうして笑っていられるのかもしれないなーと思った。
きっとこのじーさんたちこそ
最も平和を望んでいる人たちなんだと思った。
だんだんこの式典に出席する人たちも高齢化して、
毎年人数が減っているらしいけど、
日本が平和主義国になった今、
過去に戦争は存在したという事実を
少しでも長く語り継いでいく必要があると思います。
平和ボケして戦争ゲームにはまる子供たち
サバイバルゲームに興じる大人たちよ、
目を覚ませ。
じーさんがその戦争から生きて帰ってきてなかったら
いま私はここにいません。
生きて帰ってきてくれて本当にありがとう。
1日でも長く、長生きしてください。
気になっていること
まいど、ゆっこです
ガーナに来てから気になっていることの1つ
それは路上のゴミの多さ🚯
特にピュアウォーター(こっちでポピュラーなビニール袋詰めの飲料水)
の袋などのビニールゴミが目立つ
側溝にもビニールゴミが堆積
任地のコミュニティに大きなゴミ山
近くを通るとひどい悪臭
『掃除する習慣がないのかな❓』
と思いきや、子どもたちは家だけでなく学校でも掃除をします
清掃するという習慣を幼少期には既に備えているようで
かと思うと、そこここでピュアウォーターの袋をポイ捨てしていたり
基本的な道徳観念の問題なのでしょうか...
ゴミ山の近くには小学校や病院があり
子どもたちが立ち入ってしまっていることがあるようで
危険物が投棄されているかもしれないし、
感染症の温床になってる可能性が十分ありうる...
小手先の働きかけでどうにかなることではないかもしれないけど...
わたしの2年の滞在のうちにこのゴミたちを少しでも減らして
清潔な街づくりに繋げたいと思う日々です
🇬🇭JOCVガーナ第5~6週
相変わらずお腹がゆるい日々ですが元気です。
脱水にはなってないです。
首都で最後のオリエンテーション。
ホームステイについてのプレゼンではみんな似たような部分に困難を感じていたり、それぞれの印象や経験が見えたりと面白かったー。
みんなで初めてガーナ服を来て関連機関に表敬訪問、在外邦人墓地へお墓参りなどなどの予定が一通り終わり、さぁ任地へ本赴任
というところで住居の賃貸契約手続きやリフォーム作業などの影響でなかなか出発できずでしたが昨日いよいよ任地にお引っ越しでした!
これから2年間、Lower Manya Kroboという地域で活動&同期と二人暮らしが始まります。
まだ家の中はほぼ空っぽです笑
まずは可及的速やかに身の回りを整えたいですが、これでようやく活動にとりかかるステップを進めたかんじがしてます。
🇬🇭JOCVガーナ第3~4週
元気です。
毎日お腹がゆるいけど、とりあえず元気です。
さて、同期たちと和気あいあいとしたドミトリー共同生活を一旦終了して
各自の任地で2週間ホームステイプログラム期間が始まりました。
ホストファミリーは既にJOCVを受け入れた経験があり、
初日からあたたかく迎え入れて下さいました。
ここでは早朝ヤギ🐐の鳴き声で目覚めます。
食事は基本的にホストファミリーが用意して下さるので、
様々なガーナ飯を体験します。
お風呂にシャワーは無いので
バケツに汲んできた水を使って手桶で流す方式です。
都会とはひと味もふた味も違う体験の連続で、
世界にはこんな暮らし向きがあったのかと
驚いたり戸惑うことがたくさんありました。
職場へあいさつに行き、さすがに初日は緊張したけど
早速噂のガーナ時間の洗礼を受けました笑
ホームステイ期間は現地語の勉強もあります。
ガーナは公用語は英語だけど
現地語が80種類以上(‼️)もあるらしいです。
教会の日曜の集会
(物凄く賑やか‼️参加者たちが歌って踊って祈って学んで時間を過ごします)にお邪魔したり
初めてのガーナ服をオーダーしたり
今後わたしが入居する家(リフォーム中)を見に行ったり
振り返ると盛り沢山な2週間で
任地の皆さんには本当にお世話になりました。
早く生活を整えて活動を始めたいなぁ。
🇬🇭JOCVガーナ第1&2週目
ガーナ生活始まりました
ガーナに着いて最初の1週間は
首都アクラにあるJICA事務所でオリエンテーションです。
その間に先輩隊員さんたちの中間報告会があり、
私達もプレゼンを拝見しました。
どの方も苦労しながらも1年間を無駄にせず
活動してこられたということが伝わってくる報告会でした。
写真は無いけど、先輩隊員さんたちが同期全員で同じ生地を使って
各自で作ったガーナファッションで発表に挑まれてて、
早速私達も作りたいねと盛り上がりました。
そして今日からは各自の任地
(わたしの場合は首都から車で一時間くらい走ったところにあるAtuaという地域)で
2週間のホームステイが始まりました。
現地語の学習、所属先訪問、ガーナ食の作り方レッスンなどなど、
いろいろやってみます。
首都アクラと比較して店に並んでいる食材の種類の少なさが目にとまりました。
炭水化物中心生活で自分がどうなっていくのかやや心配ですが、
なんせまだ何でも初体験なのでとにかく何でもやってみます。