ゆっこすの部屋

西アフリカのガーナ共和国滞在記を始めました

空母瑞鶴慰霊式典

今日はわたしが2008年に書いた日記を掘り起こしてアップします✏️

今となっては懐かしいmixiを使ってました。

当時まだ存命だった祖父母と一緒に参加した慰霊祭の模様や

それに際して思ったことなど書きました。

ガーナ滞在中は何かと日本の行事に疎くなってしまいそうだけど、

8月15日終戦記念日を迎え祖父母のことを思いだし、

この日記を引っ張り出してきました。

 

戦争を知らない私が

今後に戦争を伝えていくのは

とても困難だけど

日本が戦争を繰り返さない

平和な国であり続けますように

という願いを込めて

また自分もそれを忘れないために

しつこくアップすることにしました。

ちょっと長めですがよかったら時間あるときに読んでください🙏

 

↓↓↓↓↓

 

うちのじいさんは食事中、

いつも急いでごはんをかきこむので

よくむせます。
そのたびにばーさんに

『もっとゆっくり食べんと、そのうち喉につまらせて死んでまうわ!!』

と怒られてる。

そのたびにじーさんは

『わしは海軍におったで、そのときの癖が直らんのだわ。

食事は急いですませんといかんかったで。』

と言い訳して笑います。


うちのじーさん御年86歳は戦争中は海軍にいました。

徴兵を受けて戦艦に乗り込み

攻撃を受けて戦艦は沈没。

じーさんはフィリピン沖で海に浮いていたところを助けられたそうです。

乗っていた船は航空母艦 瑞鶴(ずいかく)という名前です。

太平洋戦争の当時、真珠湾攻撃にも出撃した戦艦だそうです。

1944年10月25日に沈没したそうです。

その当時を偲んで、

奈良県橿原神宮で毎年10月25日に慰霊式典が開かれています。

数年前に親戚がその式典の存在をTVで知って、

うちのじーさんに教えてくれました。
以来、毎年じーさんとばーさんは出席してます。

が、体力の低下や体調が心配になり、

自分が出席できるのは今年が最後だろうと

じーさんが言っていたのを母から聞きました。
で、今年は10月25日が週末だったので、

家族で一緒に出席することにしました。

 

名古屋駅から近鉄特急&ローカル線で約2時間で橿原神宮駅に到着🚋

ばーさん『戦争のときにお参りに来たときは何も無かったのに、賑やかになったねぇ』

大きな駅ではないけど、

いろんなお店が入ってたり学生さんが沢山歩いてたり、けっこう賑やか。


近くのホテルでランチして

シャトルバスで橿原神宮へ移動🚌

 

駐車場を抜けて、慰霊碑のある会場まで歩きます。

 

会場では大正琴の演奏。

美しいけど物悲しい音色が響いていました。


慰霊碑の前には祭壇が設けられ

慰霊碑の後ろには戦艦のマストのレプリカ。

艦旗が飾られています。


式典開始まで辺りを見学すると、当時の記録が展示されてました。

『人間爆弾』

『人間魚雷』

私のこれまでの生活の中で登場したことの無い言葉です。

 

戦没者名簿には小さい字で無数の人間の名前が刻印されてます。

 


13:40 式典開始 

橿原神宮の祭祀によるお祈り、

生存者による挨拶、遺族の献花など

滞りなく順番に執り行われます。


とりわけ印象的だった式次第の中のひとつ

『当時を偲んで』

既にお亡くなりになった、瑞鶴の生存者の一人により

当時の状況が語られたものを録音した音源が流されました。

『…死に場所を求めて艦を進め…』という言葉に、

現代では考えられない、 『お国のため』の

必死の犠牲的精神を感じた気がします。

語り手の口調はいわゆる『軍人』調で、

難しい言葉使いがわかりにくい部分もありましたが、

そこで何が起こったのか初めて知りました。

1944年10月25日、マリアナ沖で

瑞鶴が7本の魚雷と10数発の命中弾を受け

航行不可能となったとき、

艦長は総員退去の命令を出したあと、

瑞鶴の艦旗と御真影(昭和天皇の写真)を副艦長に託し

自室に戻って瑞鶴と運命をともにしたのだそうです。


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海に投げ出された乗組員達は、攻撃がおさまったあとで

瑞鶴と一緒に編隊を組んでいた他の巡洋艦などに救出されたそうです。

うちのじーさんはその一人。

また、救出した戦艦が攻撃を受け、沈没したものもあったそうです。

そんな中、うちのじーさんは幸運にも生き延びて日本に戻ってきてくれました。


そこで語られた話は、

戦争を全く知らない私にとっては

まるで映画の中の出来事のようでした。

国のために若くして勉学をあきらめて命を捧げるということが

当たり前だった日本が本当にあったんです。

でも、ただ国のために死ぬことを望んでいたばかりではないこともわかりました。

瑞鶴艦長の最期の言葉の中に

『…。死んではならぬ、生きてくれ。』

とあったのです。

本当に、それはまるで違う世界の話のようでした。

 

 

14:14 瑞鶴が沈没した時間に合わせて黙祷

 


最期に生存者の代表者の方からの挨拶があって式典は終了。

 


終わった後、芝生でお弁当を広げて会食が始まります。

そこにじーさんの知り合いは一人もいないけど、

じーさんたちは輪になって当時の話をしたりしていました。

『日本の戦争映画で船が攻撃を受けるシーンがよくあるけど、

実際はあんなもんじゃないんだ。』

『日本は本当に平和な世の中になった。』

そんな会話が聞こえてきた。

 


私と母は橿原神宮に初めて行ったので、

ばーさんに促されて本宮のほうまで散歩に行きました。

けっこう広い。

この日はどこかの会社が社員総出でお払いを受けていた。

 
ひとまわりして戻ってくるとじーさんたちはまだおしゃべり中。

みんなうちのじーさんと同年代のはずだけど

背中が曲がってる人なんて一人もいない。

なんかうちのじーさんが一番年寄りに見えるかも。

お酒飲んでる人もいる🍶元気だな~。

でもばーさんは一人で輪の外にいた。

ばーさんは昔から戦争の話をしようとしない。

私が小さかった頃、私が戦争について質問しても何も話さない。

家の中でじーさんが海軍の話をしだすと、

ばーさんが嫌がっていたのを今も覚えています。


わたしは小さい頃、じーさんがごく稀に戦争や海軍の話をするのを

なんかちょっとこわいな、って思ってた。

でも、今回のこの式典に参加してみて、

じーさんたちは私たちの想像を絶する時代を

一生懸命生き残ってきたから

いまこうして笑っていられるのかもしれないなーと思った。

きっとこのじーさんたちこそ

最も平和を望んでいる人たちなんだと思った。

だんだんこの式典に出席する人たちも高齢化して、

毎年人数が減っているらしいけど、

日本が平和主義国になった今、

過去に戦争は存在したという事実を

少しでも長く語り継いでいく必要があると思います。

平和ボケして戦争ゲームにはまる子供たち

サバイバルゲームに興じる大人たちよ、

目を覚ませ。

 

じーさんがその戦争から生きて帰ってきてなかったら

いま私はここにいません。

生きて帰ってきてくれて本当にありがとう。

1日でも長く、長生きしてください。